愛おしき日々

虚無の日々を過ごしています。

いろいろ

神様
人はみな何かを信じたがっていると思う。嘘を吐く人が嫌われるのってつまりそういうことでしょ?
それに、どんな分野でも思考を固めていくのには、最初に足掛かりとなるようなものが必要だ。つまり、これは無条件で信じられるぞ、というものを確立しなければ、そこから一歩も動くことができないのである。
例えば数学における無限大。無限の数というのは∞という記号で表すことができる。そうすることによって、∞+1というような数式を成り立たせることができるのだ。しかし、これは本来奇妙な話なのだ。∞というのは無限なのだから、∞+1も無限であることに変わりはないのだ。∞+1=∞である。変だろ。本来∞を数式に組み込むのは変なのだが、それでも式は成り立ってしまう。というか「そういうもの」であるということになっている。これはつまり、それは思考を組み立てていくための足がかりだからである。

 

私の頼りない神様
実生活にもそういうものはたくさんある。お金とか安全とか。しかし、そういう何気ない信仰が崩れた時に人は強い神、もしくは強く信じなければ頼りない神にすがる。

一神教がこんなにも強い宗教となったのは、神が強いからではない。神が頼りないからである。

自分が一生懸命信仰しなければ、この神様は消えてしまう!どんなに無能でも頼りなくても、私の神様はいつも私を愛してくれている。応援しなきゃ!という訳である。

この心情はアイドルを応援するときの心情によく似ている。
日本人がロリ志向なのは、頼りない神を求めているからなのではないだろうか?自分が応援しなければすぐに消えてしまいそうなものにこそ、人は熱意を燃やす。ユダヤ教に始まった一神教というのはそうだったように。
自分がやらなければ、という思いに基づく行動はひどく自己肯定感を高める。

 

震災
震災の直後の気仙沼の惨状を見て、私はこれは現実ではないと思った。まさに現実逃避だ。夢だと思ったから、何も思わなかったし心も痛まなかった。何とも思わなかったなんて言ったら非道なやつだと思われるだろうなと思って、あまり言えなかった。たしかに自分は非情なやつだと思う。まあまだ15歳だったし許して欲しい。そんな負い目もあって、震災がきっかけとなったという人に対して羨ましいような、あんなに近くにいたのにそうはなれなかった自分が恥ずかしいような気がしている。

 

矛盾
みな矛盾を許さない。どうにかこうにか折り合いをつけたりどちらかを選ぼうとする。しかし矛盾は矛盾として耐えるのが健全なのではないか?

結局のところ純粋な善も純粋な悪も存在しない。どちらかを選べばいやがおうにも過激になる。人は見たいようにしか物事を見ないし、世界は矛盾してしまうものなのだ。神の視点では矛盾は起きないのかもしれないが、そんな視点誰も持てない。誰も人を裁くことはできない。