愛おしき日々

虚無の日々を過ごしています。

記念日

記念日というのに特に拘りがない。人の誕生日は聞いても覚えられない。好きなアニメや漫画、ゲーム内での記念日や、好きなキャラの誕生日もよっぽどのことがなければスルーしてしまう。

自分にとっては至極当然の感覚だったのだけれど、どうやらみんながそういう感じではないらしいので、なぜ自分が記念日を楽しめないのか考えてみた。

 

一つは母の影響。父と母の結婚記念日は体育の日である。祝日の方が人が集まりやすいだろうと考えたそうだ。その、ロマンティックもクソもない理由と「体育の日」というごつい響きに影響され、幼い私は記念日というのはそういうものなのだと認識した。つまりロマンティシズムより合理性が大事なのだと。さらに母はあまり記念日に執着しない人間だった。少なくとも執着心を表に出すような人ではない。

 

もう一つの影響は実家での記念日の祝い方である。私はこれがあまり好きではなかった。

家での記念日というのは、祝われる人がメインではなく、祝いたい人がメインの場だった。だから誕生日や卒入学式などの家族でのお祝いは、付き合いで参加しているといった感覚だった。そしてその感覚は私だけでなく母や妹弟にもあったと思う。みんなイラついた顔や疲れた顔をしていたから。まあ、今思えばそこまで変な内容のものではなかったのかもしれないが、当時の自分はそういう雰囲気にうんざりしていたし疲れていた。

しかし、そのことに何か文句を言ったりすることに効果はないし、自分にその勇気はなかったから、ただじっと時が過ぎることを待っていた。

基本的に実家にいた時は常にそういう感覚だった。

つまり、私にとって記念日というのは、誰かが何かを行っているのを横目に、ぼんやりと意識を鈍らせる日なのだ。

 

だが、そういう影響があるにしても、私の鈍さの原因はあくまで私自身にある。だって同じ環境で育った妹や弟は少なくとも私よりは鈍くないのだから。

それぞれが自分に適した対処法で置かれた環境に適応していたが、自分は他人よりも感覚を鈍らせることが上手かったのだと思う。だから実家の環境が悪かったわけではない。自分の中にもともとそういう資質があったというだけだ。

 

あとは単純に華やかな雰囲気が自分には不相応だと感じられて、惨めな気持ちになる、という理由もある。しょうもない。

 

それで、今後どうしたらいいかということなのだが、いきなり別人のように記念日を楽しむ人間にはなれないので、今まで通りその時の環境に適応できるように努力してやっていくしかない。忘れたり間違えたりしたときは素直に謝るしかない。

とりあえず良いことと良くないことの区別はついたので、長い目で地道にやっていくしかないだろう。