愛おしき日々

虚無の日々を過ごしています。

いでおろぎー

最近政治と宗教と哲学について考えている。

大したことを考えられる頭じゃないけど、若者向けの哲学書や宗教学の本を読むのは楽しい。

図書館で読んでおもしろかった本が、「戦争はなぜなくならないか」みたいなタイトルの本。この本では、人類にとって戦争とは何なのか、なぜ戦争はなくならないのかという疑問を、戦争を行う理由や主な戦争の例を踏まえて考察されている。

この本によると、人類にとって戦争は必要悪な存在なのだそうだ。もちろん戦争の悲惨さを肯定することはできない。だが、政治や文化、時代の変わり目に戦争は起こってきた。つまり、腐敗したものは壊され新たなものが作られる。ヒンドゥー教では、世界はシヴァ神が司るは破壊と創造によって成立しているそうだ。

まあともかく、戦争にはそういう作用があると。

そして戦争にも種類がある、と述べている。領土を拡大するための戦争、政権争いなどの王族・貴族らが行う戦争、宗教戦争、植民地戦争、そしてイデオロギーの対立による戦争。

そのうち領土拡大戦争や政権争いなどは基本的には専門の戦闘職の人が戦い、それ以外の人が被害を被ることはそれほど多くなかったという。(例外はある)また、戦力が貴重だったため兵を無駄死にさせるようなことはなるべく避けられた。これらは政治的な争いであり、これはこれで悲惨なケースも多々あるが、敵を無差別に殺しまくるようなものではなかった。これらの戦争にはルールがあり、いうなれば外交の一環であった。

しかし、宗教戦争はこの限りではない。いや~つくづく信仰心ってのは怖いね。どんな人間にも多かれ少なかれ信仰心を求める欲求というものを持っているだろうけど、人間は信仰に対する執着心がすごい。だって何かを信じきるためにはそれに対して疑いのある要素はすべて否定しなければならないから。信仰心はアイデンティティに関わるし、信仰心が強い人や自分の意義を宗教に求めている人が異教徒に寛容なわけがない。だって異教徒の存在は自分を否定するものだから。(異教徒の攻撃によって自分が否定されるのではなく、異教徒の存在それ自体が自分の存在意義を否定しているように感じられるという意味)だから、戦争のなかで最も悲惨なのは宗教戦争なのだ。

そして、二つの世界大戦、特に第二次世界大戦がなぜあんなにも悲惨だったのかというと、それは宗教戦争の要素を多く含んだ戦争だったからだそうだ。

私はこの考えにいたく納得した。薄々思っていたことだが、やっぱりそうだったのか~と思った。だって第二次世界大戦ってやっぱちょっと異常だもん。政治的外交とか領土拡大とかそういうのじゃなくて信仰心を感じるもん。

それは、日本が神道天皇・愛国といったものを中心に戦争の悲惨さ理不尽さを深めていったことを知っていたというのもある。

だが、日本だけでなく世界もまたそれぞれの信仰を胸に殺戮を遂行していったのだ。ドイツは言うまでもなくナチズムだし、欧米は民主主義や資本主義、ソ連社会主義だろう。これらは宗教ではなく政治思想だが、人々はこれらの思想が正しいのだと信仰していた。だから「異教徒」は拒絶しなければならない、となったのだろう。

政治はそもそも宗教の管轄だというのはわかっていたが、それはかなり根深いんだなあ。

専制君主の時代では王は即ち神に近しい存在であり、人々は王や神が示す未来を信じていた。その信仰心は特に積極的なものではなかったかもしれないが、人々がそれらに疑いを向けることはあまりなかっただろう。

しかし、民主制が生まれてからは王の位置に思想が座することとなったのだと思う。人々は自分が信じられる思想を信じ、希望を反映したのだろう。

 

高校生のとき倫理の授業で共産主義を習ったとき、思っていたより良い思想でびっくりしたのを覚えている。なぜ社会主義国家は失敗したのだろうと思った。そして、その失敗は政策の失敗であり、思想に落ち度はないのではないかとも思った。

でもやっぱ社会主義国家は失敗すべくして失敗したのだろうと思える。だって共産主義ってほとんど王政だもん。王政は王や神、または神の権威を借りた王の信仰によって民衆をまとめていた。共産主義共産主義やその権威をまとった人物への信仰によって人々をまとめる形にしか発展しようがないもん。共産主義は信仰心がなければ支持できないよ。特に今の時代では。

というか、マルクスが資本主義は終わりを迎え共産主義の時代が必ず来ると書き残したのも、なんというか、預言書みたいだよね。資本論って聖書とか預言書とかの類と似ている印象がある。

未来はこうであると確定して人々を先導するのって、善悪は関係なく宗教的だよな。そしてその行為は別に珍しいことではないんだよな。資本主義、というか消費社会では頻繁に行われている。商品のPRとして。

未来のことって誰にも分らないから、自分や他人による予測を信じて生きていくしかない。だから信仰心は誰にでもあるし、みんな確実に信じられる何かを常に探し求めている。神が権威を失った時代においてもそれは変わらない。だからこそ政治思想は神となりうる。

今が神なき時代であるというのは誤りだと思う。確かに伝統的な神やそれに伴う価値基準は確実に薄れた。しかし、だからこそ神はそこら中にいる。思想、アイドル、文化作品、常識、インターネットなどなど。それらを信じ、自らのアイデンティティとし、強い執着心を持ち、排他的になるならば、それはその人にとって神的存在なのだろう。

情報が氾濫している現代においてなるべく正しい情報を見極めることが大切だと言われている。それは多分神においても同じで、我々はなるべく正しく安全な神を選択する必要があるのかもしれない。まあ、そんなの現代に限らないことなのかもしれないけど。