愛おしき日々

虚無の日々を過ごしています。

逃げ回っている

死にたくなるのは、未来に希望がもてなくなったとき。

自分が世間の、友人の、家族の、つまり他人の期待に沿うことは絶望的だと思えてしかたがないとき。

 

何かを間違えたり、倫理的でないふるまいをしてしまったとき、きちんと反省して、次はこんなことないようにしようと思うのが健全だけれども、それは自分の能力に自信がある人ができることだと思う。

結局自分は同じ過ちを繰り返してしまうだろうという、予感が頭から離れない。自分はきっと変われない。能力を上げることも賢くなることも過ちから何かを学ぶことも何も、何もきちんとできていないのだ。

こんな風に同じことをぐるぐると繰り返し、同じ過ちに苦しみ、それが永遠と続くであろうという確信があるとき、絶望を感じる。

未来に希望はないと感じる。どこまでいっても光はない。自分は自分を救うことが不可能なのだと、無力感に押しつぶされる。

 

出来る人は割を食う。それは真実だ。出来ない人のしわが寄せられているから。出来ない人は無責任なのだ。できないできない、といって無駄にあがいているだけ。さぞ滑稽に見えるだろう。

それはほんとのところ、責任から逃れようとしているだけなのだ。この精神が責任に耐えられないから、できないのだ。なにもかも。

では、どうしたら責任に耐えられるようになるのだろうか。過ちをおこした後、逃げずに責任を取るためにはどうしたらいいのだろうか。

逃げてしまうのは、勇気が足りないだけなのだろうか。

勇気が足りないといって一蹴してしまうのは、それこそ無責任ではないか。

必要なのは勇気なんてちんけなものじゃないはずだ。きっと「間違っていても大丈夫だ」と、思えることが重要なのではないか?

間違っていても大丈夫だ、と。そう思えるから人は安心して勇気ある行動をとることができるのではないか?

世界から受け入れられているのだと思えること。自分は祝福されて生まれてきたのだと思えること。愛し愛されていること。

 

出来る人はそういう人なのだろう。やって褒められる、失敗しても否定されることはない。

ずるい、ずるい、ずるい。

自分だってそうやって、他者から受け入れられたい。健全な精神を育みたかった。

うーん。でもきっと母親が悪いわけではないのだ。自分が勝手にこういう風に育ったのが悪いのだ。私は卑怯な人間です。逃げてばかりで、卑怯な人間です。

ごめんなさい。