愛おしき日々

虚無の日々を過ごしています。

恋じゃなくても愛はある

これは恋なのかもしれない、恋じゃなきゃ説明がつかない、と思った。でも、恋と言い切るのはなんとなく躊躇われて、ずっと曖昧なままにしていた。

私はその人のことが大好きで、愛おしくて、特別で、大事だ。

溢れるほどの穏やかな愛はあるが、しかしそれ以上の欲望はないのだ。私は彼女とこれ以上の関係になりたいと望んだことがない。

私は彼女のことが特別で、彼女は私のことを特別に思っている。連絡を取り合い、会えば肩が触れ合う距離で話し、お酒を飲めば私は酔って甘え、彼女は甘やかしてくれる。一緒にいれるだけで嬉しい。生涯にわたるパートナーであると思っている。

まるで恋人のようだ。

 

私たちと世間の恋人たちの違うところはセックスをするかしないかだけ。私たちはセックスをしない。否、したいと思わない。私は別にしてもいいのだが、どうやら世間によると、セックスとは関係性を変えるほどの大仰な行為らしいので、したくない。一時の快楽のために、今の関係性を変えたくはない。というか、セックスでこの関係を貶めたくない。

決してセックスは悪いものでも汚いものでもないが、私の価値観では、それはその場限りのものである。セックスは快楽で、愛ではない。

セックスはお互いが純粋に遊び相手であった方が楽しめる。私はこの考えで満足している。

セックスなどという、別に誰とでもできる快楽行為を愛情表現だと思うからややこしくなるのだ。

 

セックスは誰とでもできるわけではない。する相手によって気持ち良さが変わる。知らない人や嫌いな人とするのは気持ち悪い。という反論については、私も全くその通りだと思う。

確かにセックスをする相手は選ぶべきだ。自分が納得した相手とするべきだ。しかし、その相手は必ずしも特別な感情を持つ人じゃなくていいと思う。

ただ単に性的に好きってだけでいいと思う。

恋愛と性愛はぴったり一致するものではないと、私は考えている。恋愛と性愛と友愛はそれぞれ独立したもので、重なり合う場合もある。だから、性愛しか感じない相手、友達だけど性的に興奮する相手、恋人だけど性的には興奮しない相手、などがそれぞれ存在し得るのだ。

セックスは性愛相手にするべきで、恋愛相手とするべきものだとは言えないのである。

 

私にとって特別なその人は性愛相手ではないのだ。セックスはしない方がいいという予感がする。

だから世間的には恋人ではないわけだ。

私にとっては恋人のように、いやそれ以上に特別な人だというのに、この感情はあまり理解されない。すでに特別な人がいるから恋人は作りたくない、といってもわかったようなわからないような顔をされる。つまりは、今君には恋人はいなくて、その枠は空いていて、そこに誰かが座るのは可能なわけだろう?という風に。

確かにその思考回路は間違いではないのだろうが、それは私の感情を蔑ろにしていると言わざるをえない。

私は恋人を作りたくないし、恋愛をしたくないし、特別な人を作りたくない。

ていうか、あなたは私の特別にはなり得ない。