愛おしき日々

虚無の日々を過ごしています。

死にたい気持ちが続いている。

母に対して、今私がこうして実家を離れて、人と楽しく暮らしていることを時々申し訳なくなる時がある。母は幸せなのだろうか。私が母の幸せを潰しているのではないだろうか。そう考える。でもこれは多分、自分の「生まれてこなければよかった」という思いの延長線上にある考えだ。本当に母を慮っているわけではない。生まれてきた後悔を、「なぜ産んだんだ」という非難にすり替えているだけだ。私を産まなければ、あなたも私も、もう少し楽になれたはずだろうに。一生懸命、身を粉にして育てた結果が、こんな子供だなんてやるせないね。

こうして歳を取って、身体は大人になったけれど、いつまでも子供みたいにうじうじと小さいことでいじけて、死にたい死にたいと呟いて、そのくせ働いてお金を稼いで生活を営むことが碌にできない。貯金を食いつぶしてのうのうとしている。酒とか煙草とか娯楽にうつつを抜かしている。

誰も私のことを愛してくれないのではないだろうか。優しくも賢くも美しくもない私に優しくしてくれる人などいないのではないだろうか。

いろいろ

神様
人はみな何かを信じたがっていると思う。嘘を吐く人が嫌われるのってつまりそういうことでしょ?
それに、どんな分野でも思考を固めていくのには、最初に足掛かりとなるようなものが必要だ。つまり、これは無条件で信じられるぞ、というものを確立しなければ、そこから一歩も動くことができないのである。
例えば数学における無限大。無限の数というのは∞という記号で表すことができる。そうすることによって、∞+1というような数式を成り立たせることができるのだ。しかし、これは本来奇妙な話なのだ。∞というのは無限なのだから、∞+1も無限であることに変わりはないのだ。∞+1=∞である。変だろ。本来∞を数式に組み込むのは変なのだが、それでも式は成り立ってしまう。というか「そういうもの」であるということになっている。これはつまり、それは思考を組み立てていくための足がかりだからである。

 

私の頼りない神様
実生活にもそういうものはたくさんある。お金とか安全とか。しかし、そういう何気ない信仰が崩れた時に人は強い神、もしくは強く信じなければ頼りない神にすがる。

一神教がこんなにも強い宗教となったのは、神が強いからではない。神が頼りないからである。

自分が一生懸命信仰しなければ、この神様は消えてしまう!どんなに無能でも頼りなくても、私の神様はいつも私を愛してくれている。応援しなきゃ!という訳である。

この心情はアイドルを応援するときの心情によく似ている。
日本人がロリ志向なのは、頼りない神を求めているからなのではないだろうか?自分が応援しなければすぐに消えてしまいそうなものにこそ、人は熱意を燃やす。ユダヤ教に始まった一神教というのはそうだったように。
自分がやらなければ、という思いに基づく行動はひどく自己肯定感を高める。

 

震災
震災の直後の気仙沼の惨状を見て、私はこれは現実ではないと思った。まさに現実逃避だ。夢だと思ったから、何も思わなかったし心も痛まなかった。何とも思わなかったなんて言ったら非道なやつだと思われるだろうなと思って、あまり言えなかった。たしかに自分は非情なやつだと思う。まあまだ15歳だったし許して欲しい。そんな負い目もあって、震災がきっかけとなったという人に対して羨ましいような、あんなに近くにいたのにそうはなれなかった自分が恥ずかしいような気がしている。

 

矛盾
みな矛盾を許さない。どうにかこうにか折り合いをつけたりどちらかを選ぼうとする。しかし矛盾は矛盾として耐えるのが健全なのではないか?

結局のところ純粋な善も純粋な悪も存在しない。どちらかを選べばいやがおうにも過激になる。人は見たいようにしか物事を見ないし、世界は矛盾してしまうものなのだ。神の視点では矛盾は起きないのかもしれないが、そんな視点誰も持てない。誰も人を裁くことはできない。

加護があらんことを

半年くらい前かな、誰に言われたのか忘れたけど、「革命を志向する人には女性に対して横暴な人も多い。自分はアナキズムを支持するけれども、やはり警察がいないというのは女性にとって怖い状態なのではないか?」と問われたことがある。

確かに怖いと思う。しかし、その時私は素直に警察は必要だと言えなかった。

女性はみな弱く、守るべき存在なのだと肯定したくなかったのだ。私にもプライドがある。女に生まれたというだけで弱い存在なのだとされるのには少し抵抗がある。

 

思うに、守られる人・守る人という規定は存在に依拠しない。守られるべき場面・守る立場を取るべき場面があるだけだ。

殴られた女性は守られるべきだが、殴られた男性も守られるべきである。殴る男性は非難されてしかるべきだし、殴る女性もそれは同じだ。

女性だから守られるのではなく、被害をうけたからという理由で守られたい。

嫉妬心

いい加減冬の寒さにもうんざりしてきたなーと思っていたので、この暖かさを最初は歓迎していた。でも、だんだん気が付いてきたけど、暖かいのって身体がだるくなるね。毎日頭がぼんやりするし、身体も重苦しくって敵わない。

もう何にもしたくなくて、バイトももう1週間以上行っていないけど、さすがにそろそろ行くかなと思って、一日だけ応募してみた。

暇だと碌なことを考えないしね。本を読む気力もないんだし、それならバイトの一つでも行った方がいい。

 

最近は支配欲について考えている。すべての人間にはすべからく支配欲がある。嫉妬心とか高いプライドとか、そういうの全部支配欲だし。みんな何かの上に立ちたいと思っている。それはつまり何かの下にはつきたくないということで、それは至極当然だ。ストレスというのは恐怖による抑圧状態にあるときに感じるものだ。それを避けるのに最も適した解決方法は恐怖を与えてくるものよりも強くなることだ。支配されることがストレスになるならば、支配する側に回ればいいのである。

社会は弱肉強食だ、と人は良く言う。それに対して、人間というのは集団生活を営み助け合って生きてきたのだから必ずしもそうとは言えないと反論する人もいる。

私は社会は適者生存(だっけ?)というやつを支持する。つまり、その環境に最も適したものが生き残るということだ。それは結局のところ弱肉強食であると言えなくもない。だって適したものというのはつまり強いものであると解釈することもできるからだ。まあ、その強さが結局なんなのかというのは、すべてが過ぎ去った後の解釈によるのだけれど。人間が滅びた後にしか、人間の致命的な弱さというのはわからないのだろう。そういう状況においてはなるべく様々な人間を生かし続けておかなければならない。なぜなら、一寸先の未来でどんな人間が強くなるかわからないからだ。

すべからず、支配する側の人間はその環境に適した強者である。

みんな誰かを支配したくてしたくてたまらないのだ。だって支配者は比較的安全に生きることができるから。

全ての欲望は、安全に長く生きたいという理由に基づくなあ、と最近はそう思う。

 

支配欲もそれに基づく嫉妬心も、醜いなあと思うけど、まあ無くすのは不可能だし、この欲望を全く持っていなかったら、かなり生きづらいだろう。

恋愛における嫉妬心が時に肯定的に捉えられるの、不思議だなーと思っていたけど、それが生存戦略として必要な欲望だと考えるならば、まあ仕方ないかな…と思う。

記念日

記念日というのに特に拘りがない。人の誕生日は聞いても覚えられない。好きなアニメや漫画、ゲーム内での記念日や、好きなキャラの誕生日もよっぽどのことがなければスルーしてしまう。

自分にとっては至極当然の感覚だったのだけれど、どうやらみんながそういう感じではないらしいので、なぜ自分が記念日を楽しめないのか考えてみた。

 

一つは母の影響。父と母の結婚記念日は体育の日である。祝日の方が人が集まりやすいだろうと考えたそうだ。その、ロマンティックもクソもない理由と「体育の日」というごつい響きに影響され、幼い私は記念日というのはそういうものなのだと認識した。つまりロマンティシズムより合理性が大事なのだと。さらに母はあまり記念日に執着しない人間だった。少なくとも執着心を表に出すような人ではない。

 

もう一つの影響は実家での記念日の祝い方である。私はこれがあまり好きではなかった。

家での記念日というのは、祝われる人がメインではなく、祝いたい人がメインの場だった。だから誕生日や卒入学式などの家族でのお祝いは、付き合いで参加しているといった感覚だった。そしてその感覚は私だけでなく母や妹弟にもあったと思う。みんなイラついた顔や疲れた顔をしていたから。まあ、今思えばそこまで変な内容のものではなかったのかもしれないが、当時の自分はそういう雰囲気にうんざりしていたし疲れていた。

しかし、そのことに何か文句を言ったりすることに効果はないし、自分にその勇気はなかったから、ただじっと時が過ぎることを待っていた。

基本的に実家にいた時は常にそういう感覚だった。

つまり、私にとって記念日というのは、誰かが何かを行っているのを横目に、ぼんやりと意識を鈍らせる日なのだ。

 

だが、そういう影響があるにしても、私の鈍さの原因はあくまで私自身にある。だって同じ環境で育った妹や弟は少なくとも私よりは鈍くないのだから。

それぞれが自分に適した対処法で置かれた環境に適応していたが、自分は他人よりも感覚を鈍らせることが上手かったのだと思う。だから実家の環境が悪かったわけではない。自分の中にもともとそういう資質があったというだけだ。

 

あとは単純に華やかな雰囲気が自分には不相応だと感じられて、惨めな気持ちになる、という理由もある。しょうもない。

 

それで、今後どうしたらいいかということなのだが、いきなり別人のように記念日を楽しむ人間にはなれないので、今まで通りその時の環境に適応できるように努力してやっていくしかない。忘れたり間違えたりしたときは素直に謝るしかない。

とりあえず良いことと良くないことの区別はついたので、長い目で地道にやっていくしかないだろう。

大好き

死にたいなと思う。

「あなたが働いているところが想像できない。ずっとそういう感じだもんね。」みたいなことを言われた。私はどんくさくて、気が利かなくて、他人のことを思いやれないし、子どもみたいにいつも誰かに頼って迷惑をかけている。きっとうまく社会に属することができないのだと思われたのだろう。当然だと思う。

明後日、仕事に行くのが怖い。

 

お酒を飲むと頭の中の靄が少し晴れるような気持ちになる。気持ちも明るくなって、いつもよりスムーズに話しができる。細かいことも気にならなくなる。ずっとお酒を飲んでいられたらいいのに。素面で知らない人に会うのが怖いけど、酒を飲んで会うのも怖い。

 

自分は誰からも必要とされておらず、それどころか煙たがられているのではないかという被害妄想が頭の中を巣食う。

実際はそんなことなどないのだろう。それは妄想でしかないし、そう思ってしまう原因は自分にある。自分が他人に興味がなく、他人に歩み寄らないから、こういう距離感になっているのだ。愛していないのに愛されたいなど、都合がよすぎる。愛されたいのならばまず愛さなければならない。仲良くなりたいのならば、こちらから歩み寄らなければならない。したいことは素直に伝えなければならない。うじうじと妄想に捕らわれいじけているのが悪い。

ああ、でも本当は他人に興味なんてないんです。他人から見た自分というものが知りたいだけなんです。わかってほしいけど心を許すのは嫌なんです。私はネガティブな気持ちになった時しか文章が書けないし、そんな文章誰にも読まれたくないんです。馬鹿だと思われて終わりです。でもそれは自分が周囲を見下していることの現れなんです、きっと。みんな自分の気持ちや立場をきちんと表明している。言葉で人に伝えている。自分は自分の気持ちや言葉に自信が持てず、責任も持てず、ただぼんやりと漂っている。どうでもいいんです、ほんとは全部。でもそんなこと言ったら怒られるから言いません。誰にも興味はないけれど、でもみんなことが大好きです。ほんとです。

動物

こんなに良いお天気なのに、体が疲れてぼんやりとしている。なんだか微妙に暗い気持ちだ。暗い話を書きたい。

自分は動物全般が苦手だ。生暖かく柔らかい皮膚と毛、予想のつかない俊敏な動き、次の瞬間を何をされるかわからない恐怖、得体のしれない未知の物体。それが私にとっての動物だ。人間は触らなくてもコミュニケーションをとれるからありがたい。

動物と一緒に暮らすのは多分無理だと思う。猫くらいならまだ我慢できるけど、お世話の類は無理だ。無視してやり過ごすことでしか共存できないと思う。

地球に生きている限り、動物には慣れていたほうが良いだろうに…。