なんにもないよ

内臓と虚無

ゆらめぎ

卒論を書き終わりバイトも辞め、毎日家にいる。

ツイッターをぼんやり眺めているといつの間にか外が暗くなっている。

お腹がすくので、白米に味ポンをたらして食べる。
そんな生活をしている。

 

何かしなければという漠然とした焦燥感だけが空回りして息苦しい。 

何かやることが他人によって決められていないと落ち着かないのだ。追い立てられてないと不安になる。無為に時間だけが過ぎていくことが恐ろしい。

そんな風に思うなんて、私の精神はなんて貧しいんだろう。何もしなくていい時間というのは一番の贅沢だ。その贅沢を素直に甘受できないなんて。

忙しく追い立てられている時って、アドレナリンがどぱどぱ出てて興奮状態だし、生きてるって感じがするから、それの中毒状態になっているのかもしれない。

 

暇だとだんだん精神が鬱屈してくる。
忙しい人から見たら私はすごく暇で能天気だし(実際そうなのだけれど)、さぞ馬鹿にして見下されているのだろう。みじめだ。そっちが勝手に自らを忙しくしているくせに。私の優雅さをひがむんじゃねえ。

いや、ひがんでいるのは私だ。
忙しそうな人に対して、そうやって忙しくして、求められて、疲れて、他人に労わられて、いいですね、私は肩身が狭いですよ、なんて卑屈に思ったりしている。


何を言っているんだろう、自分は。こんな考えかたは酷く矮小だ。

みんな努力している。対価を払っている。
私は努力していないし、対価を払っていない。
惰性で生きて、世間に甘えてる。そのくせ、えらそうな口をたたいて、物分りの良いふりをして、必死にちっぽけな自尊心を守ってる。


このみじめな自尊心に何の価値があるというのだ。

 

この部屋と世界は本当に地続きなのだろうか。
本当は全部虚像なんじゃないか。そんな考えが頭から離れない。

本当は誰もいなくて、何もなくて、全部夢で、私がここから飛び降りることで、首を絞めることで、刃物を突き立てることで、やっと醒めるんじゃないか。

 

信じられることが何も掴めなくて恐ろしい。足元がぐらぐらと揺らいで立っていられない。脳みそに虫がたかっているようで痒い。全身がバラバラになっていく。

不幸地獄天国

自分は存在していていいんだという無根拠の自信をもっていない人は、自分の不幸をひけらかしがちなる。

これは、かなり、経験から実感としてそう思う。心当たりが全くないわけではないので。

 

自信がない人が、なぜ不幸自慢をしてしまうかというと、それは、不幸しか自分の自信となるものがないから、であろう。

自分はこの「不幸」しか持っていないと思っているから。

 

自分のアイデンティティはこの不幸こそにあり、他のところをアピールしても(そもそも他にアピールできるところなんてないと思っているが)他人は私の存在を認めてくれない、と思っているのだ。少なくとも私はそうだった。

 

不幸以外で、自信をきちんと確立している人は、その自信の根拠をひけらかさない。

みんなに認めてもらわなくても、もうすでにきちんと確立しているから。でも不幸しか自信がない人は、ひけらかしてしまう。

不幸なんて脆弱なものじゃ、本来、自分の存在根拠足り得ないから。

不安になって、いちいち不幸自慢をしてしまうってわけ。


他に自慢できるものがない、自分にはこの不幸以外に、人に愛され、存在を認めてもらう根拠がないと思っている。

性行為快楽

前にも書いたが、私にはセックスもする同性の友達がいて、その子を仮にAさんとする。

それから、今私のことを好きだって言ってくれているBさん。

2人の何が違うって、私に対する思いの強さが全然違う。

 

Bさんの思いは誠実だし、重たい。私の何もかもを肯定し、かわいがり、思いやってくれる。それは素直に嬉しいし、実際まんざらでもないのだが、何というか、うさんくさいのだ。

Bさんが嘘を言っているわけではないのだろうが、どうも信じこめない。

私なんかをこんなに好きになるなんて信じられないし、あなた、趣味悪いね…って感じなのだ。

Bさんが私を好きである限り、私のBさんへの不信感が拭われることは、恐らくないだろう。

 

その点Aさんは良い。私のことが特別好きなわけではないのだろう、ということがはっきりわかる。この関係は単純に利害の一致と、純粋に快楽の追求のためといった感じでサッパリとしている。

セックス一つであんなに爆笑できるのはAさんとだけだ。

 

いくらアホみたいにエロいセックスをしても、Aさんが私を恋愛的な意味で好きになることは絶対にない。私もない。

その事実は本当に私を安心させてくれる。

私は自分を好きにならない人の方が安心できるし、信頼できるのだ。だからAさんと、なんのためらいもなくセックスができる。

 

Bさんとは絶対にできないだろう…。いや、別にセックスしてもいいのだが、Bさんはきっと「セックスをする=恋愛的に好き」だと思っているだろうから(実際、ほとんどの人がそうだろう)余計な勘違いはさせたくないのだ。

私はあなたのこと好きなわけじゃないよ、と言ったところで聞く耳は持ってもらえないに違いない。

 

私はむしろ恋愛的に好きな相手とはセックスできない。

緊張するし、恥ずかしいし。

本当に好きな人に、恥ずかしい顔や、グズグズでみっともない性器や、汚い身体を見せたくない。

 

だから、それを晒け出せるというのは、安心しても大丈夫だと判断したどうでもいい人か、性癖を理解してくれる友人か、ということになるのだ。

Aさんは後者で、Bさんはもしセックスするとしたら前者としてだろう。

 

これを書いて、つくづく自分は自己肯定感が低いな…と呆れた。

かなり自己愛は強いし、自己中心的ではあるのだけれど、それに加えて自己肯定感が低いとは、典型的なめんどくさい社会不適合者である。

 

自殺の話

夜中、つらくてつらくてどうしようもなくて、自転車をこいで駅まで向かった。終電に乗り込み、自宅の周辺より少しだけ栄えている隣駅まで行った。駅を出て近くの歩道橋から身を乗り出す。下に広がる道路を見下ろしてみた。

下は真っ黒で、本当に黒々としていて、「無」が広がっていた。

飲み込まれてしまいそうだった。もう少し身を乗り出すだけで、私はこのまま黒い無に飲み込まれて、何もかも無くなってしまうのだろう。

私はそれを望んでいる筈だった。

だったはずなのに、心臓はどんどん冷えてゆき、手先がぴりぴり痺れてくる。襲ってきたのは恐怖だった。背筋がゾワゾワして力が抜け、その場にしゃがみこむ。

死ぬのは怖いと思った。現実はクソで、私は上手く立ち回れなくて、全部虚無で、死んだらそれで全部終わり。頑張って生きるのに意味なんてない。

でも、死んでしまうのは怖いと思った。


ボロボロ泣いて、震える脚でカラオケに向かった。終電で来たから帰れないし、この辺で夜を越せるのはカラオケぐらいしかなかったから。

歌も歌わずソファに寝転がってワンワン泣いた。つらくて、やるせなくて、さみしくて、どうしようもなかった。

 

朝5時、外の日差しが目に痛かった。澄んだ空気に後ろめたさを感じたり、勝手に少し明るい気持ちになったりした。

 

酷い顔色で、目の下を赤くして、始発に乗った。熱海行きのその電車には、始発だというのに結構人が乗っていた。

いかにも朝帰りといった感じのカップル、これから旅行に行くんだろうなという家族、スーツのおじさん、大荷物のおばあちゃん。そして、酷い顔した私。

また、死にそこなったなあ、と思った。

女のパロディ

私にはセックスもする友だち(女)がいる。昨日はその子とドロドロのセックスをして(口移しで酒飲んだり、耳穴犯されたり、首を絞められたりした)、鎖骨あたりにえぐいキスマークをつけたまま、男の人に会った。

すごいニヤニヤしてしまった。俺は昨日、女とエロ同人みたいなセックスをしたんだぞ、という謎の余裕。謎の強気。

 

その子とのセックスは純粋に快楽の追求といった感じで良い。最高。

逆に気持ちのこもったセックスは嫌い。その時会った男の人とは仲良くなればなるほどセックスは無理だなと感じてくる。

全然知らない人や、お互いのことを大して好きでもない同士なら気兼ねなくセックスできるし、私は思う存分女の真似ごとを楽しめる。その場限りだから。

かわい子ぶりっ子最高。楽しい。

でも私のことを好きな男の人とセックスしたら、私はそこからずっと女でい続けるはめになる。

私は女になってしまう。

ずっとかわい子ぶりっ子してるのは疲れる。たまにやるからいいのだ、あれは。

ずっと曖昧なまま、たまに女をパロって楽しむくらいがちょうどいい。

少女の官能性

映画「エコール」を見た。

この映画は、端的に言うと、少女が森で集団生活する様を撮ったものだ。

 

少女だけが森で暮らすというシチュエーションはもう「これこれ!」って感じだし、本当にとにかく画面が美しい。毎カット毎カット、ひたすら少女が美しい。この監督は少女を最高に美しく撮る天才だな。


何が素晴らしいってまず服。スカートは短いが、はしたないという印象を抱くほどではない、絶妙な長さ。
色は全て白。シャツも上着もスカートも靴下も全て白。靴だけ茶色。
白は言うまでもなく、少女の純真無垢さを表し、強調する。少女に一番似合う色だ。

肌は滑らかで、みずみずしい。ふっくらとしたお腹も愛らしい。みんな長く伸ばした髪をきれいに結わえてリボンで飾っている。
またもや言うまでも無く、リボンは少女の愛らしさをより際立たせるために存在している。色が年齢毎に違うのも素晴らしい。

そんな少女たちが、少女たちだけで森に暮らしている。その姿はまるで妖精のように、無垢で妖しく、神秘性をまとっている。

 

触りたい。その滑らかな肌を、さらさらとした輝く髪を、惜しげもなくさらされた細い脚を、優しく撫でたい。

そんなよろしくない感情がゆっくりと湧き上がってくる。

柔らかな草の上に寝そべらせ、その肌をさらに暴きたい。小さな胸のその先の桃色に触れたい。
スカートの中に進入し、肉の花弁の内側にまで指を差込たい。

己の、煮えるような熱い欲望を少女の温かさと柔らかさで包み込みんでほしい。

そんなふしだらなことを考えてしまうくらい、少女の姿は官能的でもあった。

 

しかし、その官能性には肉々しさが薄いように感じた。
世俗的でない妖しさがあるように感じたのだ。

それは、いかがわしさとは無縁な清潔な純真さと、何もかもを見透かされているかのような不気味な恐ろしさ。少女の身体にはそれらが同時に存在しているようだった。

触りたいと何より願うのに、同時に恐ろしくて仕方ない。非常に蠱惑的だ。
その恐ろしさは、人ならざるものを不気味に思いながらも畏敬し、魅かれる気持ちに似ている。

 

また、恐ろしさには別の理由も感じられた。

少女のこの美しさは触れられた瞬間、地に落ちてしまうような気がしたのである。
それはおそらく事実で、少女は性の対象として扱われた瞬間に女になる。
少女の官能性の魅力は、性のために存在しているわけではないという、その無意味さにおいてであろう。
無意味なものはすべからく、この世界から解放された存在で、宙にふわふわ浮かんでいる。無駄なもの、無意味なものは愛すべきものであり、美しい。

しかし、その魅力は他者の視線によって壊される。少女が性の対象として扱われた瞬間に、少女の官能性は意味を持ち、世界にとらわれてしまう。もはやあの、夢見るような美しさと、それゆえに燃え滾る熱い気持ちは存在し得なくなってしまうのだ。

 

だからこそ、我々は画面の向こうに存在していなければならない。この視線は届いてはならない。
はっきりと分断されているからこそ、我々の焦がれる気持ちと少女の美しさは永遠に保たれるのだ。

恋じゃなくても愛はある

これは恋なのかもしれない、恋じゃなきゃ説明がつかない、と思った。でも、恋と言い切るのはなんとなく躊躇われて、ずっと曖昧なままにしていた。

私はその人のことが大好きで、愛おしくて、特別で、大事だ。

溢れるほどの穏やかな愛はあるが、しかしそれ以上の欲望はないのだ。私は彼女とこれ以上の関係になりたいと望んだことがない。

私は彼女のことが特別で、彼女は私のことを特別に思っている。連絡を取り合い、会えば肩が触れ合う距離で話し、お酒を飲めば私は酔って甘え、彼女は甘やかしてくれる。一緒にいれるだけで嬉しい。生涯にわたるパートナーであると思っている。

まるで恋人のようだ。

 

私たちと世間の恋人たちの違うところはセックスをするかしないかだけ。私たちはセックスをしない。否、したいと思わない。私は別にしてもいいのだが、どうやら世間によると、セックスとは関係性を変えるほどの大仰な行為らしいので、したくない。一時の快楽のために、今の関係性を変えたくはない。というか、セックスでこの関係を貶めたくない。

決してセックスは悪いものでも汚いものでもないが、私の価値観では、それはその場限りのものである。セックスは快楽で、愛ではない。

セックスはお互いが純粋に遊び相手であった方が楽しめる。私はこの考えで満足している。

セックスなどという、別に誰とでもできる快楽行為を愛情表現だと思うからややこしくなるのだ。

 

セックスは誰とでもできるわけではない。する相手によって気持ち良さが変わる。知らない人や嫌いな人とするのは気持ち悪い。という反論については、私も全くその通りだと思う。

確かにセックスをする相手は選ぶべきだ。自分が納得した相手とするべきだ。しかし、その相手は必ずしも特別な感情を持つ人じゃなくていいと思う。

ただ単に性的に好きってだけでいいと思う。

恋愛と性愛はぴったり一致するものではないと、私は考えている。恋愛と性愛と友愛はそれぞれ独立したもので、重なり合う場合もある。だから、性愛しか感じない相手、友達だけど性的に興奮する相手、恋人だけど性的には興奮しない相手、などがそれぞれ存在し得るのだ。

セックスは性愛相手にするべきで、恋愛相手とするべきものだとは言えないのである。

 

私にとって特別なその人は性愛相手ではないのだ。セックスはしない方がいいという予感がする。

だから世間的には恋人ではないわけだ。

私にとっては恋人のように、いやそれ以上に特別な人だというのに、この感情はあまり理解されない。すでに特別な人がいるから恋人は作りたくない、といってもわかったようなわからないような顔をされる。つまりは、今君には恋人はいなくて、その枠は空いていて、そこに誰かが座るのは可能なわけだろう?という風に。

確かにその思考回路は間違いではないのだろうが、それは私の感情を蔑ろにしていると言わざるをえない。

私は恋人を作りたくないし、恋愛をしたくないし、特別な人を作りたくない。

ていうか、あなたは私の特別にはなり得ない。