なんにもないよ

内臓と虚無

原点回帰

さて、オタクだし好きな漫画の話でもしよう。

 

唐突に始めます。オタクの好きな漫画語りです。

何から書こうかなー。

やはり順当に自分の原点から書こうかな。

遡ること、n年前。小学3年生のときに友達から借りた「カードキャプターさくら」と「ツバサ」が何もかもの始まりだった。

友人に幼稚園のころさくらのアニメを見ていた、とても好きだったと話したら、さくらや小狼が出てる漫画が他にもあるんだよーと「ツバサ」を貸してくれたのだ。同時にさくらの漫画も貸してくれた。じつはアニメしか見ていなかったので、私は本当に嬉しかった。

 

そこから、CLAMP作品を読み漁る毎日がはじまった。

しかしなんせ、もう10年以上前のことだから、初めて読んだときの記憶はほぼないのだが、よっぽどおもしろかったのだろう。今でもずっとCLAMPをおっかけている。

CLAMP作品からは、自分の好みというか、フェチというか萌えというか・・・、にかなり影響を受けている。

わかりやすいところでいえば、同性愛に対する抵抗が一切なくなった。

「好きな人のことが好き」ただそれだけでいいんだ、と今でも強く思っている。

CLAMP作品はもう、誰が誰を好きでも(人でなくても)いいのだ。好きにダメなんてないのだ。こういう思いがびしばし伝わってくる。これは特にさくらで強く描かれている気がしますね。さくらを見て育ってほんとによかったー。

あと、まじで漫画ってなんでもありなんだな・・・と思ったのもCLAMPのせい(おかげ)だと思う。

「聖伝」の阿修羅や「wish」琥珀とかは性別がないし(性別って別になくてもいいんだー、と思った)、「20面相におねがい!!」の伊集院玲のお母さんはなぜか2人いるし(しかもなぜか顔がそっくり)、「不思議の国の美幸ちゃん」なんかえっちな格好のお姉さんしか出てこないし・・・。最高。この感覚のせいで自分は漫画のみならず、現実まで何でもありだと思っている節がある。危ない。

というか私はおそらく、CLAMPで世の不条理さを学んだ。

世のなかは不条理で理不尽なものだとめちゃくちゃに思う。

あと、キャラ大集合とかクロスオーバーとかが好きなのも、90年代の文化が好きなのとかもCLAMPの影響な気がする。

 

あともう一人、自分のオタク人生に大きく影響を与えた漫画家がいる。峰倉かずや御大である。偶然レンタルコミック店で手に取った最遊記が私の人生を大きく変えた。

まじで、誇張なく、変えたのだ。

というか悟浄が悪い。

私の人生の推し、レジェンド好きキャラ、悟浄。その後にはまったキャラクターは全てどこかしら悟浄っぽいところがある。それほどまでに私の性癖に深く関わったのだ、悟浄は。許すまじ。

具体的に言えば、自堕落・女好き・そのくせ超お人よし・自己犠牲的・自罰的・器用貧乏・愛をふりまくくせに愛されることに臆病・長髪・高身長などなど・・・。ほんとにこころがえぐられるほど愛おしい男なのだ、悟浄という奴は。

キャラ以外でいっても、峰倉かずやの作風というか、人生哲学には深く影響を受けている。自分の虚無主義的なところとか、現世利益的に考えるところとか、結構最遊記の影響が大きい気がする。あと東京バビロンの影響もあるかな。

 

それからなんといっても!Sound Horizon!漫画じゃないけど!

本当にrevoはすごい!陛下は天才!

厨二病といえばサンホラ、サンホラといえば厨二病、との認識が深いが、例にもれず私の厨二病も9割9分5厘サンホラのせいである。ありがとうサンホラ。

かつて人殺し界のプリンスという異名を欲しいままにしていたrevo氏。登場する人物はもれなく死ぬか既に死んでいるか人間ではないか、である。すごい。

漢字に英読みなんて当たり前。仏語独語仮想言語なんでもござれ。歌詞が読めないこともしばしば。

散りばめられた暗号を解読し隠しトラックを探し当てる快感。耳を澄ませ効果音の意味まで読み取り、物語の考察を深めていく楽しみ。

まじでサンホラは楽しい。

純粋に曲もいい。AメロBメロサビとかなんとか無いものにして進むメロディーと台詞。最高。邦ロックにあんまりはまらないのはサンホラがすきだからな気がする。だって、邦ロックっていいこちゃんすぎない?いや偏見かもしれないけど・・・。

とくに国歌なんて聞くたび泣く。自分の居場所はここだ。自分を受け入れてくれる場所はここにある。大丈夫だ。となって泣いちゃうのだ。ありがたい。どんなに人の世からこぼれおちていってもサンホラがある。帰れる場所がある。これほどの幸せがあろうか。

 

こんな感じかな・・・。オタク原点作品は。

この3つはまじで生涯にわたって好きで居続けると思う。

まじでアイデンティティというか人格形成や人生観にまで深く関わっている作品たちなので、嫌いになったら最後、私は血を吐いて死ぬと思う。

逃げ回っている

死にたくなるのは、未来に希望がもてなくなったとき。

自分が世間の、友人の、家族の、つまり他人の期待に沿うことは絶望的だと思えてしかたがないとき。

 

何かを間違えたり、倫理的でないふるまいをしてしまったとき、きちんと反省して、次はこんなことないようにしようと思うのが健全だけれども、それは自分の能力に自信がある人ができることだと思う。

結局自分は同じ過ちを繰り返してしまうだろうという、予感が頭から離れない。自分はきっと変われない。能力を上げることも賢くなることも過ちから何かを学ぶことも何も、何もきちんとできていないのだ。

こんな風に同じことをぐるぐると繰り返し、同じ過ちに苦しみ、それが永遠と続くであろうという確信があるとき、絶望を感じる。

未来に希望はないと感じる。どこまでいっても光はない。自分は自分を救うことが不可能なのだと、無力感に押しつぶされる。

 

出来る人は割を食う。それは真実だ。出来ない人のしわが寄せられているから。出来ない人は無責任なのだ。できないできない、といって無駄にあがいているだけ。さぞ滑稽に見えるだろう。

それはほんとのところ、責任から逃れようとしているだけなのだ。この精神が責任に耐えられないから、できないのだ。なにもかも。

では、どうしたら責任に耐えられるようになるのだろうか。過ちをおこした後、逃げずに責任を取るためにはどうしたらいいのだろうか。

逃げてしまうのは、勇気が足りないだけなのだろうか。

勇気が足りないといって一蹴してしまうのは、それこそ無責任ではないか。

必要なのは勇気なんてちんけなものじゃないはずだ。きっと「間違っていても大丈夫だ」と、思えることが重要なのではないか?

間違っていても大丈夫だ、と。そう思えるから人は安心して勇気ある行動をとることができるのではないか?

世界から受け入れられているのだと思えること。自分は祝福されて生まれてきたのだと思えること。愛し愛されていること。

 

出来る人はそういう人なのだろう。やって褒められる、失敗しても否定されることはない。

ずるい、ずるい、ずるい。

自分だってそうやって、他者から受け入れられたい。健全な精神を育みたかった。

うーん。でもきっと母親が悪いわけではないのだ。自分が勝手にこういう風に育ったのが悪いのだ。私は卑怯な人間です。逃げてばかりで、卑怯な人間です。

ごめんなさい。

たいへんよくできました

結局のところ自分は何がしたいのだろうか。

目の前には虚無ばかりが広がっている。

人生に生きる価値などないのだと思っていないと、怖くてもう一歩も踏み出せない。

だって自分の人生に、自分の選択の先が正しいとも価値があるとも思えない。いつだって私は正しい選択を追い求めているけれど、そんなのはどこにもなくて、ただただ幻想の「正しさ」の重圧に押しつぶされそうになっている。

いつか死ぬって思っていないとこの肉体と精神で人生をやっていくのはキツイ。

終わりがあるっていうことに安心を感じる。全部いつかなくなるんだと思ってなきゃ、やってられない。自分の行動や思考は残るには恥ずかしすぎる。

 

みんな誰かを傷つけるし、犯罪はなくならないし、誰かより優位に立とうとする欲望は消えないし、同じように劣等感も消えない。

そんなこと自明でしょうに、なんでみんな目を逸らすのか。

人間はそういうものだから、問題が起きるのはもうしょうがないんだよ。人間のシステムはバグだらけだって自覚しよう。

だから、起こってしまった後のことを考えるほうが建設的だし、被害は最小限にとどまるんじゃないのかなあ。

傷つけないようにするなんて無理なんだから、傷つけてしまったら潔く誠心誠意謝るという覚悟をいつももっておくことが重要ってことです。

 

それから、自分のこと甘やかせない人って不思議。自分のことを褒めてくれる人も、甘やかしてくれる人も、認めてくれる人も、理解してくれる人も、結局究極のところ自分しかいないでしょう。ちがう?

私は、他人が褒めてくれるほど出来た人間じゃない。

自分のこと自分で甘やかせない人って、きちんと他人から褒められている人なんじゃないかなと思う。

きちんと褒められて、甘やかされて育った人でしょう、あなた。

だから自分で自分を褒めることに抵抗があるんですよ。自分自身の評価ってほんとは価値ないもんね。他人に褒められてこそなんですよ、結局。あなたはそれをちゃんとわかっている。

私はいつまでも目を逸らしたまま。

だって、私のこと褒めてくれる人なんていないもん。

自分で褒めて、自分で立って、ごまかしながら進むしかないでしょう。

あーあ早く死にたいなあ

傷つき続けるしかない

いやあ・・・毎日毎日頑張って考え続けています。

でも考えることより、自分にとって苦痛なのは、考えを発表することですね・・・。文章にまとめたり、口で言ったりして、人に説明するのが苦手。

表現力がないってのも一つ原因だし、あとは頭の回転が遅いっていうのもある。しゃべってるとだんだん自分が何言っているのか分からなくなる。

あとは、自分の考えが聞き届けられないんじゃないかという怯えもある。自分の考えは自分で思っている以上に稚拙で浅くて愚かで、だからそんなこと言ったら、自分の馬鹿さが露呈して、みんなに見下されるんじゃないか?という恐れがある。

見下されるのは怖い。

でも、そんなのは仕方ないんだけどね。自尊心を傷つけることでしか、人は成長できないのかもしれないし。少なくとも自分はきっと傷つくことでしか変われないだろうし。だからこそ、恐れず自分の意見は言ったほうがいいのだろうけど・・・。

それから、見下されるのを過剰に怖がるのは、自分が他人を見下しているからであるとも言える。発言によって品定めされるのが怖いのは、自分が他人を発言によって品定めしているからなのだ。

まあ、でもやっぱり、怖いもんは怖い。

 

 

それはそれとして、最近の出来事。

煙草は結局やめられなかった。労働のあとめちゃくちゃ吸いたくなって、その日は耐えたけど、結局次の日買ってしまった。

節約のために禁煙しようかと思ったのだけど、なんだか急に馬鹿らしくなってしまったのだ。そんな清廉潔白なこと、自分には似合わない。

それに、煙草の「汚さ」「居心地の悪さ」「悪いことしている感じ」が恋しくなったのだ。

肺を汚して不健康になりたかった。

 

汚いのが自分には似合う。

あー、早く人生終わらないかな。

自分の人生が他人事みたいに思えるのは、人生に責任を感じすぎっちゃってるだけなんだよ

またもや将来のことを考えたりなどしていた。

いやぁ~、暇なんだろうね、きっと。暇だし不安定な身分(無職)だからすぐ不安になって将来を案じちゃう。よくないよ~。

でも、成長はしたよ。前はもっと絶望的な気持ちになってたもん。

たぶん初めて将来が不安で泣いたのは中学三年生の時だったと思う。高校受験を直前に控えていた冬、落ちたらどうしよ~・・・ってわんわん泣いた。

次は大学受験のとき。この時は落ちたらどうしよ~なんて思わなかった。もっと漠然とした、将来の不安を感じていた。明るい未来が全然想像できないし、私なんかうっかりしてるとすぐのたれ死んじゃうんじゃないかと怯えていた。カイジとか本気で怖かった。私もいつかあんな風に転がり落ちてっちゃうんだろうなって。

大学にいる間もちょくちょく絶望してはめそめそ泣いたりしてたけど、三年冬~四年春くらいにかけては本当につらかった。みんな就活してて、どんどん内定決まってて、でも私は何にもしてなくて。何にもしたくなくて。

暑くなっていくにつれてどんどん吹っ切れていったんだけどね。

今は無事(?)無職で、あの頃、少なくとも中三の頃よりは神経が強くなった。でもあの時の絶望感は今でも鮮明に覚えているし、たぶん今でもうっすら絶望し続けている。

 

あの夜、私は、「この人生は私のものなんだ」ということに気がついてしまったのだ。自分の人生なんだから、選択の自由と、それにともなう責任は全て自分が背負わなければいけないのだ。もう誰のせいにもできない。誰も私を守ってはくれないんだ。そう気づいたのだ。

私はたぶんあの時二度目の誕生をしたのだ。そして生とは絶望なのだと実感した。生まれてしまったからもう、それ以前の柔らかな安心感には戻れないのだ。

 

まあ、そんな絶望感が実感としてあったわけなんですけど、あれはおそらく勘違いではなかったのだ。私はどんどん坂を転がるように落ちていく人間だということがもうすでに自分でわかっていたんだろうね。その通りだよ。気づけてえらい!

 

いや~ほんとにどんどん転がり続けているよ。

でも今はあの時ほどは絶望してないかな。底に転がり落ちても、まあ大丈夫かな・・・と思えてきたので・・・・。いや大丈夫じゃないんだけど・・・、大丈夫じゃなくても死ぬだけだから・・・。

世界って、社会って、結構でたらめじゃないですか~。なんかあんまり真面目に生きてこうとは思えないんだよな~。流れに身を任せて身を滅ぼしていくのが、自分に一番合っているような気がする。いや、こんなのは思い込みかもしれないけど。

 

そんなこんなで、将来のことについて考えてたんですけど、つまり、いまだにあやふやな闇なんですよね、将来って。

週二日くらい働いて生活がままなっていくのが理想だな~。でもうっかり就職するかもしれないし、東京にいくかもしれないし、もっと田舎に引っ越すかもしれないし、いつのまにか海外に行っているかもしれない。

結局、生活がままならなくて借金まみれで怖い思いしているかもしれないし、生活保護を受けて苦しい暮らしをしているかもしれない。このまま今のお家に住み続けたり、お店とかやったりしているかもしれない。明日ぱったり死ぬかもしれない。

なんにもわからんし、もうどうなってもいいや~ってなっちゃうんだよな。よくないよ。

 

谷間の吐瀉物

書くべきことがあるときほど書けない。

誰かに何かを説明したりする文章って、まったくもって腰が重い。自分の気持ちを適切かつ論理的に文章にするのは、本当に苦手だ。

こういう日記みたいな誰かへ宛てたものではない、だらだらとした文章はむしろ好きで書けるんだけどなあ…。

メールやラインの返信とか、自分の気持ちの説明文を書くのがしんどいのは、一重に他人に自分がどう見られるかを気にしているからなんだと思う。

どういう文体で書けばいいのかなあ…。どう書けば伝わるのだろう。そう思って適切な文章が書ければいいのだが、これが書けない。考えれば考えるほど何が正解なのかわからなくなってくるし、もはや自分の頭の出来や語彙力や常識では論理的で適切な文章を書くだなんてことは不可能なんじゃないかとすら思えてくる。

そしてそれは、本当のことなのだろう。自分の今の能力と経験値では、適切で論理的な文章が書けないのにそこをなんとか頑張ろうと無理をしているからしんどいのだ。できるはずだと思い込んで、他人に出来ないと思われたくなくて、理想と現実の狭間で吐きそうになってる。

だって自尊心、傷つくの怖いじゃん…。見下されるの嫌だし、見下してくる人怖いし…。

思えば自分は見下されることを過剰に怖がっている節がある。見下されたくなくて話せなかったり、グループディスカッションの授業をサボったりしていた。集団のなかで意見言うのってすごく怖いし、意見を求められる集団にいるのも怖い。それは自分の発言が品定めされているように感じるから。

まあ、それって自分が他人を品定めして見下しているからなんだろうけどね・・・。

だって、別に意見を品定めして見下してくる人なんていない。そんな人がいたとしても、自分が気づかなければいないのと同じだし。

見下されるのが怖いのは、自分が他人を見下していて、見下すことで自分の位置を定めているから。あの人よりはマシだ、そう思うことで自尊心を慰めている。

いやぁ、なんて矮小で下品な人間なんだろう・・・。

ここから抜け出すには、つまり被害妄想を止めて恐怖心をやわらげるためには、自分が無意識に人を品定めし、見下す癖をなんとか治すしかないんだろうなあ。

いやあ、でもこれは非常に骨が折れることですよ・・・。どうしたらいいのかなあ。

自分は無意識に見下している相手としか仲良く話せない節があるから、良い人だけど(自分にとっては)怖い人とも積極的に話していくようにすればいいのかなあ。うーん、ゆっくりがんばりますか。

あとは、能力に見合った自信をつけることなんだろうな。

これは、地道に能力を上げていく努力しかないですな。ビジネスメール文書をひたすら真似して書いてみるとかしてみるか・・・。

それから、自分の意見がきちんと固まるまで集団や問題に首をつっこまないということも気をつけよう。特に問題には気をつけよう…。結局その場しのぎの意見だから上手く話せなかったり自信が持てなかったりするのだ。ちゃんと自分の意思で首をつっこまないと絶対、けちょんけちょんにやられて自尊心がずたずたになり、後で後悔する。

気をつけるんだぞ、これからの自分。

灰色のやさしさ

最近は自分が思っていた以上に優しくない人間なんだなと、気づかされることが多々あった。それは正直ショックなことだった。


私は自分勝手で自己中心的で他人に無関心で、道徳観念が薄い。
ある程度気づいてはいたことだが、そのせいで自分の思惑とは裏腹に他人を傷つけてしまったりすると、本当に絶望的な気持ちになる。

自分はこんなに駄目な人間だったのか、今すぐ死んでしまいたい、と思う。

 

いつだって人は人に優しくあるべきなのに。
自分の無分別さや浅薄さが、他人を傷つけてしまったときなんてもう目も当てられない。

申し訳ないしやるせない。さらに、そんな状況でもなお、自分をかばうように言い訳を探してしまうのがみっともなくてしょうがない。

 

人に優しくするというのは、本当に体力がいる。私は常々優しさは強さであると考えているのだが、それは人に(適切に)優しく接するのは非常に体力・精神力を使うと思うからである。
人は(というか自分は)すぐ自分勝手になる。だが、それは努めて気をつけていなければならないのだ。
だがまあ、いくら気をつけても、無意識にしろ意識的にしろ人を傷つけてしまうときはある。
自分は特に、すぐ無意識に人を傷つけてしまう。
それはその都度反省すべきなのではあるが、それはそれとして、というかだからこそ、私は他人に出来るだけ寛容でありたいと思っている。
他人というのはこの場合、己が好ましく思っている、ないし己のことを好ましく思って欲しい人に限ってではあるが、せめてそのような人々に対してはなるべく寛容でありたいと思っている。
傷つけられても自分の傷に気づかないようにしているし、自分は傷つけられて然るべき人間なんだとも思っている。だって、きっとその分人を傷つけてしまっているだろうから。これは当然のむくいなのだ。

 

人はきっと傷つけた分傷つけられてしまうし、傷ついた分傷つけてしまう。
そういうものだと思っている。

 

私はこれからもずっと、おそらく一生、傷つけて傷つけられて、そうやってゆっくり死んでいくのだと思う。

それはひどく辛いことだ。